翌日、翔平から萌香直通で内線電話が入り、来客だ紅茶を持って来てくれ。と指示があった。秘書室のスケジュールに、CEOの来客予定はなかった。
(プライベートなお客様なのかな)
萌香は普段より丁寧に茶葉を蒸らし、翔平が好む伊万里焼のティーカップに紅茶を注いでCEO室へと向かった。萌香は茶盆を握りながら、父親の顔を思い出した。あの事件さえなければ、こんな屈辱を味わうことはなかったのに。彼女は唇を噛み、扉をノックした。商談にしては人の気配が荒々しかった。萌香の胸はざわついた。
「入れ」
「お邪魔します、お待たせいたしました」
萌香がお辞儀をして顔を上げると、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。女性が翔平に絡みつき、革の椅子が軋む音が響く。彼女は視線を逸らしたかったが、身体が動かなかった。
(まさか、会社で)
萌香は茶盆を落としそうになった。
「萌香、落とすなよ。それ、気に入っているんだからな」
「は、はい」
「ここに置け」
翔平は、今、まさに他の女を抱いているマホガニーの机の上まで紅茶を運んで来いと言った。
「ああ、ん」
女性の艶かしい喘ぎ声が部屋に反響する。
「ここまで来いと言っているんだ!」
「は・・・はい」
萌香は震える手で茶盆を握り直し、テーブルへと向かった。脚がもつれて転びそうだ。今すぐ、この場所から飛び出してしまいたい。
「どうぞ」
指先が小刻みに震え、紅茶にさざなみが立った。その様子を満足げに見た翔平はこう言った。
「辛いか?これがおまえの父親が俺に残した傷の代償だ」
「・・・・・・!」
翔平の声には怒りと共にどこか苦しげな響きがあった。女性は激しく腰を振って悶え続ける。萌香はその場所に凍りついた。
*****
それでも萌香は父親が犯した罪を償うため、翔平の暴挙に耐え続けた。それは自分の家というテリトリーがあればこそ許せる行為だった。それが今夜、翔平は萌香のボーダーラインを超えて自宅マンションに愛人の一人を連れ込み、行為に耽った。
(もう駄目、耐えられない)
萌香が両耳を押さえてソファに蹲っていると、身支度を整えたその女と、バスローブを羽織った翔平がベッドルームから出て来た。ダウンライトに照らされた女はまだ若く、清純派として有名な新人女優だった。萌香は心の中でほくそ笑んだ。
(清純派が呆れるわ、ここで写真を撮ったらどんな顔をするのかしら)
床に投げ出したショルダーバッグに目をやった。中にはスマートフォンが入っている。けれど萌香はそれに手を伸ばさなかった。もし、彼女の不倫現場写真が流出すれば、久我製薬株式会社CEOの翔平の地位も足元から脆くも崩れ去るだろう。萌香はそれを望んではいなかった。父親の罪を償う、ただそれだけで萌香はここにいる。
「じゃあね、またね翔平」
「ああ、またな」
女は大胆不敵にも萌香を一瞥し、奥さん、意外と可愛いじゃん。と笑いながら手を振った。別れ際の熱い抱擁でもしているのだろう、玄関先から舌を絡ませあう音が聞こえて来た。
(もう、どうでもいい)
鍵がかかる音がすると、白檀の香を身に纏った翔平が隣のソファに腰掛けた。まだ身体の芯が火照っているのか、額の汗を拭っている。萌香はキッチンに立つと冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターの瓶を取り出した。指先から伝わる冷たさが、身体中に染み渡っていくようだ。
(もう、耐えられない)
彼女は意を決したように、翔平へと向き直った。
「翔平くん」
「なんだ、文句でもあるのか」
萌香の唇は震え、両手はスカートを握り、足裏に力を込めた。大きく息を吸って、深く吐いた。
「離婚しましょう」
萌香の声が部屋に響いた。翔平は一瞬動きを止め、彼女をじっと見つめた。白檀の香りが漂う部屋に、重い沈黙が落ちた。
第四十章萌香は港区の三十五階建てマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げ、まるで自分を拒絶するかのような冷たい箱がそこにあった。ここはかつて萌香の自宅だった。エレベーターのガラスに映る彼女の表情は、毅然として美しかった。真実の愛を手に入れ、克己の母となった今、彼女は過去の自分とは違っていた。ショルダーバッグには、萌香のサインが入った離婚届が静かに収まっている。萌香は今、翔平という過去と決別する覚悟を固めていた。エレベーターが上昇する中、彼女は克己の笑顔と克典の温もりを思い出し、胸に力を取り戻した。ダウンライトが点る廊下に、ハイヒールの音だけが悲しげに響く。見慣れたはずの我が家の扉は、別世界へと繋がる門のように感じられた。萌香は深呼吸し、離婚届を握りしめた。翔平との対峙は、彼女の人生を取り戻す最後の戦いだった。扉の向こうで、過去の呪縛を断ち切り、克典と克己との未来へ踏み出すために、萌香は一歩を踏み出した。インターフォンを押す彼女の瞳には、希望と決意が宿っていた。「・・・・はい」「萌香です」「開いているから、入れ」「分かりました」
第三十九章萌香が日本へ発つ日が決まった。その夜、萌香は初めて田辺克典と結ばれた。克典の優しい指先は萌香を蕩けさせ、熱い唇は彼女の身体に赤い花びらを散らした。それはまるで二人が二度と会えないことを予見するかのように、萌香の奥深くまで情熱的に刻み込まれた。抱き合いながら、萌香は克典の鼓動を感じ、未来への不安と希望が交錯した。克己の寝息が静かに響く部屋で、二人は互いの存在を確かめ合った。「パパ、ば、ば、」「うん、バイバイだね」空港のロビーで、萌香に抱かれた克己は、克典の袖を小さな手で握り、愛らしく微笑んだ。萌香は目を細め、二人のやり取りを交互に見つめた。克己の無垢な笑顔が、彼女の心に温かな光を灯した。「克典くん、なに、永遠の別れみたいな顔しちゃって」「そうかな・・・」「大丈夫よ、帰ってくるから」搭乗チケットを手に、萌香は背伸びして克典に軽く口付けた。別れの瞬間、克典の瞳に宿る寂しさを感じつつ、彼女は微笑んだ。萌香と克己を乗せた飛行機は、カリフォルニアの青い空
第三十八章萌香は眩しい分娩台の上にいた。それはカリフォルニアの明るい太陽を思わせる光で、彼女の顔を白く照らし出した。波のように寄せては返す陣痛に耐えること四時間、額には汗が滲み、苦悶の表情が浮かんだ。唇を噛みしめ、痛みに耐えるたび、萌香の心には過去の記憶が蘇る。翔平との三年間の結婚生活は、愛というより重圧に満ちていた。すれ違いの日々、冷えた会話、互いの心の距離。だが、その中で芽生えた新しい命は、彼女に光をもたらした。田辺克典との出会いは、萌香の人生に新たな色を加えた。彼の穏やかな笑顔、優しい言葉が、凍てついた心を溶かしたのだ。今、陣痛の合間に萌香は思う。この赤ん坊は、過去の傷を癒し、克典との第二の人生を照らす希望の光だと。痛みがピークに達する瞬間、彼女は力を振り絞り、新しい命を迎える準備をした。その小さな泣き声が、萌香の心に響き、未来への一歩を刻んだ。「萌香さん、男の子ですよ」「男の子・・・・・」「とても元気だわ、頑張ったわね」萌香は涙を流し、赤ん坊のぬくもりを感じた。産室の静寂に小さな泣き声が響き、彼女の心を温めた。そこへ会社から駆け付けた田辺克典が現れた。手に深紅の薔薇の花束を持ち、穏やかな笑顔で萌香を見つめる。「萌香ちゃん! 男の子だったんだね!」
第三十七章萌香の胸は早鐘を打った。翔平が、自分が妊娠したことを知ったらどんな反応をするだろうか。彼はこの子を自分の子供だと認知し、久我家の跡取りとして、取り上げるかもしれない。萌香は、それだけはなんとしてでも避け、赤ん坊を守りたかった。緊張で口の中が渇いた。いつまでも居留守を使える訳もなく、萌香は震える指先で応答ボタンを押した。「どちら様でしょう?」萌香の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、翔平は先の尖ったナイフを突き立てるように激しい口調で萌香を罵った。彼女はその言葉を聞いているだけで、三年間の辛く惨めな結婚生活が瞼の裏に浮かんでは消えた。唇を噛み、握り拳を作る。萌香は、母として毅然とした態度でモニターに映る翔平に話しかけた。「もう、お会いすることはありません。どうぞお引き取り下さい」「萌香! お前はまだ俺のものだぞ!」翔平はポケットから封筒を取り出すと、彼のサインが空欄の離婚届を広げて見せた。萌香は、まだ離婚が成立していなかったことに衝撃を受け、その場に座り込んだ。翔平の「不受理申出」が、彼女の自由を阻んでいた。あの夜の暴力、復讐に囚われた彼の執念が、なおも彼女を縛る。萌香は腹の子に触れ、決意を新たにした。「この子は私
第三十六章萌香がカリフォルニアでつわりで苦しんでいる頃、翔平は日本で彼女を探し回っていた。二ヶ月前、突然ポストに投函されていた萌香からの離婚届に衝撃を受けた。翔平は、勝手に離婚届を出されないよう、区役所で“離婚届不受理申出”の手続きをした。(どこに行ったんだ!)萌香の母親が入院していた病院に向かったが、ベッドはもぬけの殻で、ビープ音のない白いベッドがあるだけだった。ナースステーションにどこに転院したのかと尋ねたが、「個人情報ですから」と事務的な返事が返ってきた。当然、一千万円近くの入院費用は一括で支払われていた。翔平の胸に怒りと焦りが渦巻く。翔平は、公証役場で萌香に声をかけた田辺という男を思い出した。田辺克典はオークションで一千万円を支払う財力を持っている。萌香の母親の入院費用も、田辺が工面したに違いなかった。翔平は田辺克典の足取りを追うため、知人の調査会社に連絡した。「絶対に見つけ出す」ところが、埼玉県川越市にある田辺の実家は古びた一戸建てで、到底、金回りが良いとは言えなかった。家から出てきた年配の男性、おそらく
第三十五章萌香は、彼の復讐が盲信であったにも関わらず、離婚に応じない翔平の姿勢に苛立ちを感じるようになっていた。そこには僅かな情が陽炎のように揺れていたが、それもやがて儚いものへと変化した。萌香は、サインをした離婚届を翔平のマンションのポストに入れた。もう後戻りはしない。確固たる思いが萌香を支配した。「お待たせ」「早かったね」「ポストに入れるだけだから」彼女は翔平から逃げるため、田辺克典とアメリカに渡航することに決めた。母親の多額の入院費の支払いも済み、最先端の治療を受けられるようカリフォルニアの病院に転院する手続きも済ませた。「ありがとう、田辺くん」「いいんだよ」田辺克典は、翔平との離